さて、第一回はタイコクラブのつくり方と題し、会場として馴染み深い長野県木曽郡「こだまの森」とのエピソードを書いてみよう。
僕がタイコクラブに初めて足を運んだのは4年前。
来るたびにこだまの森の環境は恵まれていると感じる。ここから眺める山々の緑はいつも深く、そばには里山的な風景も広がっている。何よりも高台にある野外音楽堂の音響効果は様々な会場で体験してきた中でも群を抜いて素晴らしいのだが、ステージ前に広がるすり鉢状の地形がその秘密だ。ここは音が底にたまるようにできている。これがコンクリートなら音の反射が厳しくて耳が疲れてしまうが、土の地面がやわらかく音を吸収してくれる。
そんな理由から、こだまの森は90年代から野外レイヴの名所として親しまれてきた。ここでは何度かトランス系レイヴが開催されてきたのだ。
知人のデザイナー「I」が15年前、いや10数年前だったか、ここを訪れた。一昨年に彼はタイコクラブの会場でそのことを話してくれたのだった。
Iくんにとって初めての野外レイヴがここ。ある日インド雑貨屋でフライヤーを渡され、よくわからないままこの場所に来た。とぐろを巻くようなトランスミュージックに乗って、何百人ものレイヴァーたちがステップを踏む光景に圧倒されている内にひとりの女の子がやってきた。サイケデリックな衣服に身を包んだ彼女はオーディエンスのひとりひとりに笑顔で花を手渡していくのである。
「あなたにも」
「はい、あなたにも」
まるで60年代のビート系小説を読むような光景が繰り広げられ、知人デザイナーはしばらく何も手につかないほどの驚きを経験したという。90年代ド真ん中、日本の奥深くではこんな光景がひそかに行われていたのである。

話を元に戻そう。00年の頭にかけて何度か野外フェスの会場として使われてきた「こだまの森」だが、06年にタイコクラブが使うまでの数年間、どのフェスも会場として使ってこなかった。いや、使えなかったという言い方の方が正しいだろう。
何でそんなことに? 詳細は『野外フェスのつくり方』に譲るとして、イベンター側が引き起こした、ある「問題」が引き金になって貸せない状況になってしまったのだ。
ではなぜ、タイコクラブはこの会場を使用できているのか?
たいていのオーガナイザーなら「貸せない」と言われて引き下がるかもしれないが、彼らは諦めなかった。門戸を閉ざした会場側の心を少しずつ解きほぐそうとしたのである。
騒音、ゴミ、参加者のマナーはどうなのか。2人は会場側が抱く不安を解消するために何度も木祖村に足を運んで説明をしたという。企画書を抱えて時にはスーツまで着て、村の公民館に出かけたというから泣けるじゃないか。勢ぞろいした木祖村の重鎮たちが長机にズラリと並んでいる。当然初めは、音楽やフェスの話をスラスラ理解してもらえる雰囲気ではなかったが、不安があればシミュレーションをかけたデータを出して説得したという。地道な、あまりに地道な作業の繰り返しの果てに「名所」こだまの森の門戸は開放された。
……いま野外フェスをやるということは、僕らが思う以上にシンプルだ。時にメディアが喧伝する「世間」対「音楽文化」の対立軸を必要以上に意識するのはもう、建設的ではない。
そう、遅かれ早かれ野外フェスは「世間」と直面せざるを得ない。規模が大きくなればなるほどそれは自明のことだし、何よりも大きな音を出す祝祭空間は目立つのだ。ならば、初めから正面きって世間の中に潜り込んでいこうという話である。
これを続けていきたいと考えるのなら、世間の内側に入り込んで根を張っていくことは決して損ではない。
いまではどのフェスも開催地とのリレーションをごく普通のこととしてやっているし、地方都市では地元発信を基本にする「地フェス」も増えつつある。この背景には地に足のついた何かをつかもうという想いがあるのかもしれない。
いま、野外フェスは様々なコミュニティにいる人たちを受け止め始めている。もはや子連れは珍しいことではないし、タイコクラブにも村会議員のお爺ちゃん(70代)までが踊りに来る事実もある。恐らく、たぶん、野外フェスはソーシャルなプラットフォームになる可能性を秘めているとも言えるのだ。
岡本俊浩
1976 年東京生まれ。渋谷宇田川町のレコード店「ミスターボンゴトーキョー」「DMR渋谷店」でのバイト生活を皮切りに音楽業界に入る。以後フリーのライター業。現在はエンタメ系記事から犬猫取材までこなす。主な執筆媒体は、『TVブロス』誌の連載コラム「左手で描いた世界地図」、週刊誌『アエラ』のほか、 季刊男性ファッション誌「アエラスタイルマガジン」では編集担当。世田谷区在住。7月23日にMASSAGE編集部との共著で『野外フェスのつくり方』(フィルムアート社)を出版する。
2010-7-20th Up





