タイコクラブ | よむフェス #6「フェスは消費財か?」 

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よむフェス #6「フェスは消費財か?」


Illustration : SEIGOFUKUDA
この「よむフェス」では、ファッション、自然回帰マインド、スピリチュアル、野外PA、そしてタイコクラブの裏側をテーマにコラムを書いてきた。最終回は野外フェスの未来について考えてみる。
ファッションの通販サイトを覗いた時のことだ。アウトドアウェアの商品キャプション欄を見ると、「いまや社会現象とも呼べる野外フェス……」という文言が躍っていた。
現代フェスが社会現象と呼べるほど巨大なマーケット~文化フォーマットであるかどうかは判断のわかれるところだろうが、いまや「フェス」という単語が日常会話で使われることは珍しくないわけで、この意味ではフェスは現代消費社会の一部に組み込まれていると言えるだろう。
だが、それはフェスというものが消費財になったということを示唆することでもある。「たまごっち」「エアジョーダン」「渋谷系」「クロックスのサンダル」などと同じようにフェスは消費され、いまから10年後には「あった、あった。フェス!」という扱いをされてしまうのだろうか。
 
現状確認を行っておこう。
まず、これだけ取り沙汰されていながらマーケットとしての野外フェスは頭打ちに達している感が強い。
『ぴあライブ・エンタテインメント白書2009』(ぴあ総合研究所)には、00年から08年までのフェス市場規模推移が掲載されている。

http://www.amazon.co.jp/dp/4835617444


野外フェスの総市場規模を表す金額は、06年に150億円に達している。翌年が135億円。そして直近データの08年では再び150億円をつけている。この推移は右肩上がりの成長ではなく、マーケットとしてのフェスが横ばいに入ったことを示している。今年も某大型フェスの動員は思った程ではなかったというし、ある関係者は、
「競合フェスが増えた。食い合いのようになっている」
とこぼしている。
夏に集中開催されるから、コンテンツの核になるアーティストの争奪戦も過熱している。あるフェスでは、アーティストがAという競合フェスに出演した場合、ウチには出さないというレギュレーションを敷いているというから驚く。
オーディエンスの「慣れ」も負荷になり得る。
コンテンツ制作者として、消費者に驚きを与えたいという姿勢はとても重要なものだと思う。
世界には僕らが知らないだけで素晴らしいミュージシャンがまだまだいるはずで、彼らの演奏を届ける――というのは、音楽フェスによる依然重要なミッションである。
だが、アーティストの格だけを追求していけば、経済的破綻(オーディエンスにとってはチケット価格の高騰)に繋がるだろうし、ネタとしての意表性だけを追い求めれば芸人や元アダルト女優が名前を連ねるという――本末転倒な結果にもなりかねない。
書籍『野外フェスのつくり方』にも書いたが、そういう状況がある一方――中心に音楽がない野外フェスが出現しつつある。
これは昨年、多摩川の河川敷で見たことだが、白昼、30代男女による50人前後の集団がいた。ハウスミュージックのリズムが響いている。小規模ではあるものの、誰がどう見ても野外フェスである。
しかし、僕はおかしなことに気づく。DJブースがどこにもないのである。スタンド式の立派なスピーカーから音が出ているにも関わらず、バンドもDJもいない。代わりに何をしているのかというと、彼らはアウトドアグリルで何かを焼き、リズムにのって体を揺らしているのである。
 DJやバンドが中心にない。むしろ本来あるべきものと考えられているそれが空洞化してさえいる。つまり、音楽が従属的なポジションに位置する。あるいは最初からないというフェスは、実はいま増えつつある。
本連載第2回で触れたアウトドアファッション誌『ゴーアウト』(三栄書房)は、野外フェス「ゴーアウトキャンプ」を開催している。

http://www.goout.jp/gooutcamp/

「フェス」を名乗るこのイベントには、ミュージシャンのラインアップがない(当日飛び入りであるのかもしれないが)。一言でいうならこれは、みんなでキャンプをするためだけのフェスなのだ。持ち寄ったギアを雑誌が撮影し、その他にはアウトドアブランドの商品展示、フリマ、テントの見た目コンテスト、そしてキャンプ合コンなどが行われる。
熱心な音楽ファンの間からは、
「何それ?」
というリアクションが返ってくるのは容易に予想がつくものの、やや極端な例として提示させてもらったのでご理解をいただきたい。
音楽が中心にないという事例は、見方を変えれば現代フェスの成熟を意味しているようにおも思える。
フェス(レイヴ)が発展途上にあった90年代、目当てのアーティストを求めて会場を右往左往することは無粋なことだと指摘されたものだ。フェスティバルは文字通り「祝祭」なのだから、そこで行われる音楽以外のパフォーマンス、コミュニケーション全てを抱きしめることが文化的なのだと、経験の豊かさを自負する人ほど言ったものだ。
海外での事例もそれを裏付けている。イギリス「グラストンバリー」、アメリカ・ネバタ砂漠の「バーニングマン」のような伝統のあるフェスティバルでは、出演ミュージシャンも重要ではあるが、そこで出会う他者とのコミュニケーションを含めたことすべてが「体験」として尊ばれている。そう、音楽が必ずしも中心にない流れは、日本のフェスもそうなりつつあることを物語っているのかもしれない。
そのことは日本の野外フェスが地域の祭事的な機能をまとえるかどうか、というテーマにも関わってくる。何百年と続く地域の祭事のようになれるフェスはごくわずか――あるいは出てくるかどうかもわからないけれど、それが出てきた時には世代/コミュニティを超えるという点で社会的な意味を帯びるだろうし、何よりも「消費財」としてのフェスから自由になれる可能性を秘めている。
さらにもうひとつ言えば、どこか汲々とする音楽そのものの蘇りに寄与するのではないかと思うのだ。
誤解を恐れずいえば、もはや音楽が音楽的文脈の中だけで自足できる時代は限界に達しつつある。音楽だけを聴き、見ていれば、新しい音楽が生まれるほど現代は甘い時代ではない。
それは音楽を取り巻く状況のあらゆる変化がそうさせているのだと思う。例えば経済的な変化だ。パッケージ、デジタルいかんを問わず、ミュージシャンが作品をつくり、それでペイをするということは難しくなりつつある。自主レーベルをつくって、仲間を養うということはできないし、音楽誌をつくって状況に対してオピニオンを投げかけることも絶望的になりつつある。相次ぐCD/レコード店の閉店は、現実問題として「もうリアルの店舗は誰も必要ないのではないか」という議題を物語っているようにすら思える。
つまり、ゼロ年代頭までのようにセンス磨きに執心したところで、実践的な何かを持っていなければ音楽は前に進んでいかないということなのだろう。いま、既存の音楽文化に寄りかからず、自給自足的なミュージシャンが脚光を浴びているのは、そんな背景に支えられているのだと思う。
いずれにせよ、音楽文化は変わった。この未来がどこに転がって行くにせよ、もう後戻りはできない。
しかし、音楽が消えることはないだろう。ライブという現場だけが残り――極端なことをいえば、録音物に価値が置かれなくなったとしても――音楽は続いていく。それは音楽が近代以前の媒介形式をまとうということでもある。近代のクラシック音楽においては、残されたのは譜面と口述/筆記による伝達だけで、録音物は基本的に残されなかったからだ。ライブとリアル/ネットによるコミュニケーションだけが繋ぐ現代音楽文化のありようは、どこか似ている。
暮らしや、コミュニケーションの中に音楽が溶けだしていき、その中で生き続ける音楽。そういう時代の中で、音楽の存在が少しだけ軽くなる。むしろ、音楽の外側からエネルギーをもらい、時代の音楽として蘇る。そのためにフェスというプラットフォームはより成熟されるべきだろうし、そこには消費財を超えた意味があるのではないかと思う。

(最後に)読者のみなさん、タイコクラブ関係者のみなさん。全6回に渡る連載、お付き合いのほど、ありがとうございました。またどこかでお会いしましょう!

岡本俊浩
1976 年東京生まれ。渋谷宇田川町のレコード店「ミスターボンゴトーキョー」「DMR渋谷店」でのバイト生活を皮切りに音楽業界に入る。以後フリーのライター業。現在はエンタメ系記事から犬猫取材までこなす。主な執筆媒体は、『TVブロス』誌の連載コラム「左手で描いた世界地図」、週刊誌『アエラ』のほか、 季刊男性ファッション誌「アエラスタイルマガジン」では編集担当。世田谷区在住。7月23日にMASSAGE編集部との共著で『野外フェスのつくり方』(フィルムアート社)を出版した。
 

2010-8-30th Up 



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